写真を撮る 2

 

 思い出そうとしても思い出せない事がある。

悪友に言わせれば、毎度まいどの事だと言うが、まさかそれほど馬鹿ではなかろうと、

自分では思う。然し、思い出せないのだ。

 

 原生林でゼンマイ採りをしていた頃、スーパータクマー3.5/35というレンズがあったのだったろうか。

然し、現在それはあるのである。

いや、かなり後年までタクマー4/35をひっくり返して使っていたのだから、

その頃にそれがある筈が無いのだ。今やそれは、SPを使っている父に提供されたが、

元来はSVに着けてあった。それではSVを妹にやった時、妹が自分で買ったのだろうか。

私にはそれを買った時の記憶が無いのだ。

どうもそう考えた方が無難なようだが、では妹は、35mmを選ぶだけの知識やカメラ屋さんと

の繋がりはあったのだろうか。そして、私にはそのレンズを使った記憶がまったく無い。

そして、妹の物である筈のSVが、このレンズと共に、故障したまま、あるのだ。     

 あのレンズはどんな描写をしたのだろうか。どうにも気になる。父から借りて撮れば良いのだが、

山小屋に越冬させたらしい。とすると、黴だらけになっている可能性が高い。

何とも可哀想なレンズである。4月になる前に屋根の雪堀りに行くつもりなのだが、

今はとにかく忙しいから、心が痛む。心が痛むけれども、あの小柄なレンズに愛着はない。

自分で愛用した記憶が無いのだから、どうにも仕様が無い。

4月4日に山の家の雪堀に行って来た。積雪は3メートル位だが、わが家は未だすっぽりと雪の中で、

平家部分の茶室の屋根の上に1メートル余の雪を残したまま、諦めて来た。

(4月17日、やっと潜り込んで捜した。無事だった。黴も生えていない。)         

 

 今仕事をしている現場は、川沿いの急斜面、というよりは崖っぷち。四月に入ったばかりだというのに、

ショウジョウバカマ、アズマイチゲ、イワウチワの花が咲いている。

それもそうだ。崖の上には未だ一メートル余の雪があるのだが、崖にはちっとも雪が無い。

だから、間もなく片栗も咲くだろう。梯子をかけて花に近寄ってみた。

明日天気が良かったら写真を撮ろうと思って。然し、梯子の上以外に足場が無いのだ。

三脚などはもってのほか、自分でカメラを構えられない。ぐらぐらするような梯子は嫌いだ、

と言うよりは、とても怖い。仕方がないから、もう一ヶ月待って、ぜんまいを採る時にしよう。

カメラをたすきがけにして、野山を徘徊するのが、とても楽しみである。

 

 毎年、何らかの花や蝶を発見している。私にとっての発見であって、新種発見と言うのではない。

毎年ひとつか二つの名前を覚えると謂うのは、人様に比べると随分のんびりした話だろう。

けれども私には、一時に余り多くを覚えられないと言う特技がある。

この特技は余り感心出来ないのだろうが、それでも、新しい名前を私の頭コンピューターに入力できる事が

とても嬉しい。更にこの特技は、毎年毎年、大きな感激を味わえる。大変ありがたい特技である。

                                                            

 さて、この物覚えが悪い私のコンピューターであるが、写真撮影のデータなどは如何しているのだろうか。

私は小さな手帳を持っている。然し、それは日記代わりであって、撮影データ用ではない。

だから、この写真は果たして何というレンズで撮ったのだろうか、という事すら覚えていない事もある。

ネガフィルムのファイルに、二年前から、カメラとレンズ名を記入するようになったのだが。

 しかし、私のコンピューターはこういう風に撮影データを決定出来る。

まず、何とか撮影の日時を思い出す。そしてその時に着けていたレンズを、

記憶とバックのボケ具合から判断する。レンズを決定すると、その写真の天気具合から、

シャッタースピードを決定する。更に、写真のボケ方から、絞り値を決定し、

シャッタースピードのデータを訂正する。私は余程でない限り、1/250s.以下の速度は使わない。

それでも光が足りない時は、1/60s.なのだ。マクロ撮影の時は、この限りではないが。

然し、昨秋生まれて初めてマイタケに出合った時は、光の少ない大木の下だった。

よく考えて、1/4s.に決めた。マイクロニッコール 2.8/55 だったから、これ以上は開けない。

ブレるだろうなぁと思いながら撮った。案の定、僅かにブレていた。

念の為、1/8 s.で撮ったものは、露出不足であった。ネガフィルムでさえこうなのだから、

1/4s.はもうぎりぎりの許容範囲だったのだと思う。

私が1/60s.以下の速度で撮るのは非常に稀である。

だから、はっきりと記憶に残っている。この、二種類のシャッター速度以外に、

良く使うのに1/500s.がある。昨春のギフチョウの時もそうだ。

あっ、チョウだ、と気づいてとっさにシャッターをAuto,絞りを4にセットした。と

ころが、絞りについては、三枚撮るうちに動いたのか動かしたのか、5.6 になっていた。

本当はもう一絞りしたかったのだが、咄嗟の判断というのは難しい。とても難しい。F8

が欲しいと思っても、4に設定せざるを得ない悲しさよ。だからといって、最新のオートフォーカス、

プログラム露出の機械に変えるつもりは更々ない。

今は、撮影データの管理など簡単な世の中なのだが、果たして、機械任せの写真にデータ

は必要なのだろうか。カメラ任せで、ほんの少しの補正をする程度ならば、

撮影データの有無は何の意味もない。と、思うのは私だけなのだろうか。

頭の悪いコンピューターを持つと、こんな僻み根性にもなる。

然し、他人の写真を見る時には必ず、撮影データを見てはいるのだ。                 

 毎日新聞の余録に、村上陽一郎・国際基督教大学教授の「安全学」の引用を見つけた。

「最も大切な事は、当事者の注意深さや機転がなくても、不注意があってなお『事故』を

起こさない手段を生み出すことである」

「人間はミスを犯すことを前提として、しかもミスを犯したとしても、

結果がシステムの安全にとって致命的にならない手段を、何段階に分けて、

システムの中に組み込んでおくこと、それに尽きる」。                                                         

けだし名言なり。然しながら、私の撮影システムには、それが全くない。

如何すればこういうシステムの構築が出来上るのだろうか。

時々刻々、常にシャッターと絞りを合わせておくことであろうか。いや、私の場合は違う。

何と出合うか分からないのだから、とにかくシャッターは1/250s.。 それから絞りはF5.6〜8。

それで先ず一枚撮ろう。後の補正はそれからだ。

こんな話を聞くと、今の若い衆は驚くかもしれないが、私はこうして育った。私の父も、祖父も、

こうして写真を撮ってきた、と思う。これは結構苦しい事だが、よく写った時の喜びは何十倍にもなる。

「安全学」の見地からすれば、まったくの不安全行為である。

私が敢えてそうするには訳がある。本稿の第一部で述べたことだが、まず電池に対する安心感が持てないのだ。

これは決定的に私の怠慢的な性格による、と思う。写真を撮る事は決して命がけではないのだ。

プロフェッショナルならばそうは言えないが、私は呑気なアマチュア。

だから、こんな怠慢は必ず許されるものと信じている。

それから、ワインダーなどさらさら欲しいとは思わない。レバーを使って巻き上げなくてもいい。

私は、ノブを、ゆっくりと回しながらフィルムを巻くのが好きだ。咄嗟の時にはその限りではないが、

やはりフィルムが勿体無い時代を、忘れないのだろうか。

然し、さすがにフィルムが廉くなった今では、一発勝負はしない。三枚撮るだけの余裕があれば、必ず、

絞り値は変える。更に余裕があれば、構図も変える。

もっと余裕があればいいのだが、どっこい問屋が卸さない。

 前述の「安全学」を、身をもって具現したのが最新の電子カメラなのだろう。技術屋さんには、

まったく脱帽する。確かにそうなのだと、このコラムを読んで気が付いた。

ああそうだったのか、と初めて気が付いた。

 安全に対して殆ど無関心な人は、必ず利益優先で仕事をさせる。それは、

まるで心の貧しさをこれ見よがしに宣伝しているように見える。彼の部下は、哀れな奴、

という同情はしない。馬鹿にして、相手にもしたくないのだ。

では、写真を楽しむ為に、そういう「安全学」がどうしても必要なのだろうか。

私は相手にされなくても良いから、自分の信念を曲げない。これは利益には関係ない事なのだ。

むしろ、大きな喜び(他愛のない喜び)を得る方が良い。大きな絶望の方が良い。

仕事の安全と、写真の安全は、私にとって同一のものではない。だから、私の言っている事柄に矛盾はない。

 ここで思い出した事がある。何年前だったか、私は山の中できのこを取っていた。

その時ぶら下げていたのは、ピントグラスの調整が狂っているキエフ19。

突然子連れのカモシカに出遭った。慌ててケースのふたを開け、逃げ去る親子を追いかけた。

走りながらもとにかくシャッターは切った。然し、その駒には何にも写っていなかったのだ。無念であった。

走りながら撮ったのだから、ブレと露出の不適性は覚悟したのだが、何よりも困った事は、

グジャグジャッとした、模様の様な物しか写っていないのだった。こういう時には、

ピントグラスの調整以前の問題として、やはり被写体を必ず入れる事が大切なのだ。

そして私は、安全対策のきっちり出来ているカメラが欲しくなるのだ。

 しかし、咄嗟の場合に対応できる訓練はしておこう。必ずその訓練は必要だ。

うまくゆかなくても、訓練だけはやるべきだと思う。

 

 ところで、1/2倍程度の接写では、露出の補正はどうするのだろうか。           

ベローズには、倍率が刻印されているから、指示に従って露出倍数をかければ良い。

では、その元になる露出をどうやって決めるのか。私は殆ど山勘露出なのだが ISO 100

のフィルムを長年使ってきたから、何となくそれで間に合う。TTLの指示に従った方が

失敗する確率が高いのだ。今冬、雪の結晶に挑戦した。五十嵐さんから戴いたベローズを使って、

等倍以上に拡大した。この時はTTLを使って露出を決めた。

そうしなければ全く分からなかったからである。従って、使用したカメラはニコンFではなくて、

FM2だった。これは浦安の叔父さんから買って頂いたもの。

小柄に見えたのだが、例えばペンタックスLXと同じ位の大きさだ。これは意外だった。

Fに比べると心細いほど小柄に見えたが、どうもそうではないようだ。

これはこれで良いカメラだと思うが、何分手に馴染まない。いや、馴染む程には使いこなしていないのだ。

余りにもFの使い勝手が良かったから、なかなか出番が回らない。どうすれば良いのだろうか。

答は簡単、大切な写真を撮る時に使えばいいのだ。ではFで撮った写真は大切ではないのだろうか。

そんな事はない。そもそも、FM2の使用説明書というのを読んだ事がないのだ。

老眼故に、机の引き出しにしまったまま。測光範囲がこの程度だから、

露出はここに合わせるべきだ、というのが全く分からない。

これも私の怠慢なのだ。だから、露出で失敗するのだと思う。

 実は、私はF3が欲しい。あれはオートマチックだと聞いている。すると、電池嫌いの私の思想に、

十分矛盾するではないか。これは困った事になった。そこで思い出してみると、ペンタックスSP、MX、

LX、P30、フジカAX−1、ニコンFM2、みんな電池を使うではないか。

もちろん、LXとAX−1はオートマチックだ。そして、LXはよくオートを使ったではないか。

ならば、F3が欲しいと思っても、全く問題ないのではないか。

此処ではたと気がついた。私にはそれを買えるだけの余裕がない。資金がないのだ。

 ともあれ、接写をする場合は決定的にTTLが良いと、私は思う事を、此処での結論としよう。

実は、FTN のファインダーも、一緒に五十嵐さんから頂いたのだが、切ない程に、重かった。

 

 私は、ペンタックスSPを使っていた頃、ローライ社製の、ゾナー 2.8/85 を買った。

レンズの中に金属の粉が散らばっていたので、その旨連絡したら、早速別の製品を送ってくれて、

不良品は送り返してくれという詫び状も入っていた。恐縮しながら送り返して、

すぐにこれ一本での撮影が始まった。実は、例の如く、2/58しか使える物がなかったのである。

このレンズは、はっきり言って絶品だと思った。

コントラストの良さと共に、階調の豊かさに目を見張った。バックのボケ味には少々不満があったが、

そんな事などは気にしなくてもよかった。赤い色のコーティングが気にいったし、全長も短かった。

 これが私の常用レンズとなった。但し、このレンズでカラー写真を撮った記憶はない。

殆ど全部、トライXだった筈だ。一種類のフィルムしか使わなかったというレンズは、

多分これだけだ。普通の登山も、沢登りも、女の撮影会も、野の地蔵様も、全部トライXだった。

この頃の写真が、多分私にとっての最高の出来ばえだったと思う。

良い仲間に恵まれて、しかも、皆若かった。私も、実は若かったのだ。

 このレンズで初めて、レンズの善し悪しの様なものを知った。とにかく、今までのとは全く違うのである。

これを使わなかったら、おそらく私は今ほどにはレンズに関してやかましくない人だったと思う。

平気で、ズームレンズを標準として、それでも無抵抗だったかもしれない。

今とは全く別の、レンズ観を持ったかもしれない。

だから、ライツのレンズの味だとかツァイスがどうとかの記事を見て、何の感慨も湧かないかもしれない。

然しながら、そうなってはいないのだ。私は、うるさい人なのだ。それも、

所謂評論家さんやプロの方々とはちょっと違ううるさ型の様だ。とにかく、金がないから何にも買えない。

だから、私の手元に入って来るものは全部、全くの偶然であって、高価な物は貰ったものだ

(マイクロニッコール2.8/55、Aiニッコール2/24、AFニッコール2. /80

200 ED、オートニッコール 1.2 /50 )。その数少ない経験から、自分なりに感じるのだ。

あのゾナーと比べて、どうなのだ、と。早い話が、井の中の蛙の、うるさ型なのだ。

例え自分で買ったレンズであっても、家族の理解が無ければとても入手出来るものではない。

だから、なかなか厳しい批評が出来ないのだ。お金を出してくれた家族を侮辱する様だし、

また、それを作って下さった技術屋さんに対しても、申し訳ない。

然し、私は主張する。良い物は良いのだ、と。ただ、ブランドや世間の評判には、結構冷静である。

安くても良いレンズという物を知ってしまったからだ。何度も言うが、インダスター 3.5/50 である。

私にとっての、素晴らしいレンズ、第三弾であった。

世の中の、使ってみたいレンズを挙げれば、多分切りがない。

ほんの些細な事であっても使い比べてみたいのだが、今のところ、どうしてもというのは、

エルマー4/90Lマウント、ヘリア4.5/15 (コシナ製)、そしてマクロキラー1.9/50 位だろうか。

但し、エルマーとマクロキラーは、ベローズを介して、ニコンで使いたい。

そうすれば、接写専門として使える。エルマーの方は、実は冨成忠夫という方が、

山野草の花の写真集で使っていらしたので、その美しさは実証済なのだ。

彼はニコンELをお使いであったが、現在はまた別の機体を愛用しておられるであろう。

 私がエルマーの名を知ったのは、父からであった。父は、子供だった私に、テッサーの良く写る事、

エルマーは良いレンズだという事を良く聞かせてくれたものだった。

キャパの事も。子供の私には到底理解出来ない話なので、自分で写真を始めてから思い出したのだ。

然し、如何にテッサーやエルマーが良いのだと言っても、私には実感出来なかった。

それが、ゾナーを使って初めて推測的な実感が出来た。あのレンズは今、何処でどうしているのだろうか。

これはM42マウントで、父にやってから、もう何年もその姿を見ていない。

これもまた、山小屋の箪笥の中で、黴だらけになっているのだろうか。嗚呼。

 

 先日、ニコンFがオーバーホールされて帰ってきた。五十嵐さんから頂いた、とても大切なものだ。

早く撮りたいのだが、今は油や泥だらけになる現場にいる。だから、とてもカメラを持ち歩けはしない。

花は咲いているが、足場のない崖っぷち。

でも、もう直ぐ私は山に入る。花も咲いているし、水も綺麗だし、蝶も翔んで来る。

どのレンズを持ち歩く事にしようか。蝶ならば80〜200のズームが良い。気軽に携帯するには、

やはりマイクロ55ミリだ。然し、このレンズしか知らないと思われるのも癪だから、

いっそ24〜120に接写リングのセットを持って歩こうか。然し、このレンズもかなり重い。

これは、私にとって物凄く贅沢な悩みなのだ。一気にお金持ちになったような気がする。

ひょっとすると、レチナ2.aを常に携帯しているかもしれない。これは現在オーバーホールに出しているが、

間もなく出来上がってくるだろう。

 技術屋さんの言葉であるが、今はこういうものを直せる人が激減しているのだそうだ。

ドイツのマイスター制度を、日本でも導入したらどうだろう。マイスターに、国家公務員として働いて頂けば、

それほど莫大な修理費を払わなくてもよくなると思う。関東カメラサービスという会社は、

若い技術屋さんが揃っていて素晴らしいものだと言っていたが、

あそこに出す時は金の話をしてはいけないとも言われた。利益を出さなければならない事と、

完璧を目指す事はかなりの経費を必要とするのだ。それが良く分かるから、

いっそ公務員になって戴きたいのだが、文化水準の低い日本国政府では、

とてもそうはしてくれないだろうナー。

それはともかく、古い機械を修理しながら使える態勢というものは、必ず必要だと思う。

ドイツでは未だにコンタックスDが現役だという話を聞いた。資料を見ると、

1952年3月から1956年8月まで、69,599台が生産されたという。

これを使っている人がいるという事は、修理をしてくれる人がいると推定してよいと思う。

カメラは、必ず壊れる物だから、修理しなければ使うわけにはゆかないからだ。

以前、カメラ雑誌の広告で、何時までも古いカメラの部品を作るのが大変だから、いっそ

新しい機種に変更して欲しいと言うような記事が載った。もう随分以前の事だ。

どの程度まで交換に応じた人があったのか分からないが、

今でも古いライカは数限り無いと思われる程日本に集まっている。

資本が変わった現在のライカ社では、もう部品のストックが余り無いと言うが、

日本のカメラならばもう何世代も前に部品など無いのだから、よくぞ頑張って居る事よと賞賛したい。

日本の場合、製造打ち切り後7年間は部品を確保しなさいと言うが、文化的な恥を晒け出した法律だ。

電子部品はどういう物なのかよく分からないので言及しないが、少なくとも機械部品の確保は、

30年を目安にして頂きたいものだ。

何故30年かと言うと、自動車などはそこ迄持たないと思うが、カメラに関して言えば、

例えば100年でも使える物だからだ。適度な使用とメンテナンスで、

確かに良い金属と工作のカメラであれば、100年など楽勝だと思う。

日本のカメラは、未だ使用している金属が貧弱な時代であったから、到底そこ迄は無理だろうが、

それでも某メーカーのシャッター10万回テストは、昔からの誇りだったように思う。

10万回と言うと、自動車で換算すれば30年だ。あちこちが腐食して、例えエンジンは快調でも、

その他の所の体裁が崩れている。

 では、シャッター10万回と言うのを検証してみよう。

36枚撮りのフィルムを一月に三本づつ使ったとする。大体120回のシャッターを切るとする。

一年で、1440回。そのまま使い続けて、およそ70年。一月に倍の6本使ったとしても、

35年は持つという計算である。この計算を素直に受け取ると、少なくともその間、

金属摩耗によるシャッターの故障はないという事だ。

これ位の使い手ならば、数年毎にオーバーホールをするだろう。それでも、使えるという事は素晴らしいのだ。

「もう、修理できませんよ、部品が無いから。新しい機種を買った方が安いですよ。」

実際にメーカーに言われた言葉だ。残念でならなかった。それで、自分でバラしておしゃかにした。

ところが、昭和32年頃のそのカメラを、今でもちゃんと直してくれる会社があるのに、

25年も前のメーカーは、やってくれなかったのだ。法律は未だ整備されていなかったような気はするが、

やはり残念でならない。あのまま保存しておきさえすれば、きちんと直してくれる修理屋さんに出会えたのに、

もう駄目。歪んでしまった。フィルム巻取りクランクの周囲にあるリングなど数点の部品が、

使用不可能になっている。例えば「関カメ」さんに持ち込むと、部品は作ってくれるかもしれないが、

金はかかるのだ。私は、こういうメーカーの態度が、最も嫌いだ。雑誌の投書にも、

N社は、出来るだけの修理をしようと努力するが、A社は、全く態度が違うというのがあった。

また、修理センター単位でも対応が違うだろうから、私はメーカーよりも、

修理専門の業者にお願いする事にした。

修理出来ないのならば、いっその事自分で何とかしてみようと考えるのは、私は間違ってはいないと思う。

メーカーに見放されたという事は、普通に考えればもう屑鉄だと言われたに等しいのだから。

そういう事で、私は良い修理屋さんに出会えたと思う。

 

 炬燵の脇には何でも手が届くような仕掛け、即ち、全く片付けないので沢山の物が積まれていて、

居乍にして何にでも手が届くようになっている。この下から写真が数葉出てきた。

その中の一枚は、昨年九月のある早朝にオリオン座を撮ったものだ。レンズはニッコールSオート 1.255

開放で15秒位の露出。このレンズは、少し黄色がかって写り、開放では全体的なフレアと共に、

コマフレアが出る。更に画面周辺では点像が流れる。

でも、普通に使うには優秀なレンズだと思う。そもそも夜の撮影といえば、画質はそれ程でなくても

雰囲気が出れば良いとするからだ。また、薄暗い風景でもその通りで、

それ程にビシッと写ってくれなくても良い。露出不足や手振れの方が困るのだ。

だから、このレンズはありがたい。これも、五十嵐さんから戴いたものだ。                         

 私は、露出の計算をする時に両方の手の指を使う。左手がシャッタースピード、右手は絞り値。

これほど簡単な計算機はない。しかもこの計算機に対応する機能を、写真の数学は持っているのだ。

少なくとも、撮影の現場では、この数学体系が生きている。ありがたい事だと思う。

これこそが、誠の意味での、「合理」であろう。

 人間に直接働きかけて尚良く機能する。こういう体系は、

戦後に出現した法律などではまず見当たらないだろう。

なぜならば、人間の為の法律かどうかさえ疑わしいのだ。

人間に必要なものは、綺麗な空気と水、食料と健康な身体だ。これを見据えていない者が多過ぎはしないか。

いづれは、人間という動物がいた、というような歴史書が書かれるかもしれないが、

その評価はずいぶん低いものになるだろう。結局、人は間違った方向へ歩いて行き、

間違った判断を基準として、ついに正しい道を見つける事が出来なかったと記されるだろう。

そして時代が下れば下るほど、加速度的にヒステリックな「滅び」への道を歩んだと。

悲しい事ではないか。目を覚ませ、人間という動物よ。

 例え滅びはしなくても、いつか必ず人口は激減する。それが自然界の掟なのだ。

立派な宗教者は、最も世の中に危機感が漂う頃に出現する。しかし、人間が「道」の本質を見失い、

自然界に於ける自らの地位を、全く勘違いしているこの時代に、

例えばオウム真理教のような狂気も出現するのだ。彼らが正気か否かは、

覇権を取るか取らないかで決まる。個々の意志を確立しなければ、そうなるのだ。

この日本でも、現在が果たして正気の世界なのだろうかと、私は疑っている。         

立派な宗教者は、果たして出現するのだろうか。

 宇宙の本質を解析出来なくても、地球上でのすべての有機無機の関わり合いはある程度わかるだろう。

それを知り得る手段は、科学と謂うもの一つだけ、という事はあるまい。

だからといって、そのほかの手段は安易に近づけるものではない。

それらは、普通の人には理解出来ない侭で、凶器にもなり得るものだ。

 これは、カメラの世界にもある。科学の力で出来たカメラが、恰も神話の中に溶け込もうとする勢いで、

一部の狂信者を生み出している。偶像崇拝を悪い事だとは言わないが、

それでも狂気と写る私の眼が、狂っているのだろうか。それとも、これも一部の宗教なのだろうか。

一部には「ライカウィルス感染者」と言っているが、そういう病気の人だけではないようだ。

全くの狂信者が、多勢、それも地下に潜伏している様な気がする。

彼等が、例えば中古カメラの値段をつり上げているとすれば、全く迷惑な信仰である。 

 一部の者の利益が、果たして他の者の不利益に必ずなり得るだろうか。

答は、その通り、だと思う。私が写真を撮る事は、わが大蔵省にとってみれば全くの不利益である。

私が生きている事さえ、私を嫌う人々にとっては不利益なのだ。これは極端な思想ではない。

生物の基本的な姿なのだ。それで、うまくバランスが取れている。     

然し、本当はそうではない。全宇宙の全ての物体が、互いに干渉しながら生物の命を育んでいる。

或る存在が必ず、他の存在に対して害を及ぼすと云うのは、実は間違っているのだが、

果たしてそれを真実として実感しているだろうか。

これは、社会Aが真実ならば、必ず社会Bの方は間違っていると云う思想を直視しなければならない。何故か。

あのヒトラーの信奉者は、あの社会にあっては正義だったのだ。

ユダヤは、悪だったのだ。だから、何が正義で何が悪なのかは、判断の基準がものを言うのだ。

自分では正しいと思っていたとしても、また社会全体がそれを許容したとしても、絶対真理とは言い難いのだ。

 では、絶対真理と云う言葉に相当する事実は存在しないのだろうか。私は有り得ると信ずる。

然し、他の者がそれを真理と認めないかもしれない。例えば、宗教の世界は、

自らの宗派を真理であると認めているだろう。他の宗派を認めない歴史が、

多くの悲劇をもたらした事も事実だ。覚醒された人間と云うのは、多分こんな事で云々しないのだろうが。

 此処で、疑問が湧いた。

私は、写真を撮る事と、カメラそのものと、一体どちらが好きなのだろうか。

何だかんだと言っても、カメラというもの自体に興味を持たずには居られない。カメラの本を読んでいて、

とても楽しいのだ。そして、興味のあるカメラは、自身で使ってみたいと思うのだ。

内部機構や製作思想にも興味がある。                                 

また、カメラの発展史、カメラ産業の歴史等にも興味がある。技術者の苦心談や、

世界の情勢との関連も興味深い。そして最も読みたい物がある。修理屋さんの立場から書かれた本だ。

修理屋さんは、全く面白い物語を、而も延々と書けるだろう。誰か、

そういう本を書いてくれないものだろうか。10冊でも20冊でも私は愛読する。

そう謂う事を知った上で撮影するならば、歴史の重みと一緒に撮影出来るのだと思うからだ。

 私は、ライカの他にシリアルナンバーに依る製造年月が明らかな文献を見た事がない。

大抵は、何年何月から何年何月迄の製造という記述なのだ。或はc1946とかの記述であって、

判然した年数が分からない。尤も私には、その手の文献が無い。

自分で使っている機械の製造年月位は知っていたいと思う。が、或る程度迄分かるのは、

ゾルキー4しか無い。

ともあれ、私が好きなのは、機械と撮影の両方だという事が分かった。

 

 二十才の頃、カメラの型録を集めた事があった。

何ら予備知識が無い時代の私は、その中の用語さえよく分からなかったし、

カメラ雑誌の存在すら知らなかったのだ。写真屋さんの店頭に置いてある、

無料の小さな入門誌が唯一の情報源であったから、型録は貴重な物だったのだ。

その雑誌での強い印象は、松田ふみおという、漢字は忘れたが、そういう名前の人だ。この人の記事で、

写真の撮り方という初歩を勉強したと思う。想い出せば、果してどこまで理解しながら読んだのかと云うと、

かなりの疑問がある。松田氏には申し訳ない事だ。

さて、その型録だが、強烈な印象が残っているのが、キャノンペリックスのものである。

ブラックアウトのない世界と云うのを、一眼レフでは初めて知ったのだ。成る程、こういう手もあったのかと、

目から鱗の思いがした。固定観念と謂うものは恐ろしい。一眼レフカメラならば、

もう是々こう云うスタイルなのだ、と謂う観念が出来上がっている。

もっと自由な発想の物は無いのだろうか。というよりも、私自身が、

いろんな発想から色々な物を考え出せないだろうか。

 例えば、ぎゅっと握るとピントが移動するレンズ、ぐいっと捻るとアオリ撮影が出来るレンズ。

絞り羽根の形を変えられるレンズ、格納時に全長が短くなるレンズ。

折り畳める一眼レフ、ピントグラスの明るさに依って無電源でもTTLで露出が計測出来るカメラ。

 例えば、ペンタプリズム付きの一眼レフに、レンジファインダーが付いている物を見た事があるが、

あれはピントグラスが暗いための苦肉の策である。必要だから、必要な機構があるのだ。

必要は、発明の母と言うではないか。

では、私にとって何が必要なのだろうか。

視度補正機構は必ず欲しい。

シャッターボタンは、軍艦部とレンズ脇に二つは欲しい。

巻上レバーは、左側が良いと思う。ローライ35のように。多分うまく使えると思う。

問題は厚さだから、ミラーアップして沈胴式のレンズをつける。

これはあくまで、標準マクロ以下の場合に限る。

望遠系では、せいぜい150mm迄だろう。軽いレンズでなければ沈銅の強度が保てない。

鏡胴の太さと光路等の関係もあろうから、私は標準マクロだけでも良い。

難題なのは、ミラーボックスだ。これが折りたためて、しかもミラーは瞬時に復帰しなければならない。

ペンタプリズムはどうだろう。まさか折りたためはすまいが、小型には出来よう。

オリンパスペンFのようなプリズムでは駄目なのだろうか。

或はプリズムを通る時に光束が小さくなり、接眼鏡で光束を復帰させるというのは駄目だろうか。

その他に、小さく出来る要素はないだろうか。

レンズそのものについて、所謂パンケーキ型と謂うのはどうだろう。

ヘリコイドとは別に、接写の為の引き出し式。

沈胴状態で普通の使用、引き出して接写専用(12月に発見した)。

また、人間の目のように、自在に厚さを変えられるレンズが一枚あれば、

随分小型に出来るのではないだろうか。

然し、画質が犠牲になってはいけない。だから、我々素人はレンズについては全く希望的な要望しか出来ない。

技術者に苦労をかけようと云う腹なのだ。

 

 それにしても、私が自分で欲しい機能や、十分小さくなった理想的なカメラを手に入れたとして、

果たしてそれを使って良い写真が撮れるのだろうか。随分と疑問がある。

第二部で述べた通りだ。いや、しかし、必ずや今よりもシャッターチャンスに強くはなろう。

その良い例がローライ35だった。という事で、希望を持とう。

 機械と云うものは、完全であってはいけない。必ずどこかで間が抜けていなければいけない。

人間もそうだ。必ず完璧であってはいけないのだ。

間が抜けていると言っても、しょっちゅうではこれ又困る。そういう意味の間抜けではなく、

何となく可愛いまぬけの事を言うのだ。そして、せいぜいそれは、自動露出の段階までとしておこう。

但し、必ず機械シャッターをある程度は残す事。

多分、私は自動露出を使うと思う。最低でも、3割位はその世話になると思う。

そして独り言を言うのだ。「だから自動なんていい加減なんだよ。」と。

ところが、今の分割測光などは大変精度が良いらしい。それが、困るのだ。せいぜい良いとしても、

LX程度にしておいてほしい。

 それにしても、あのLXは、シャッターに関しては百点満点だと思った。私はあれでいい。

あれ以上の性能は要らない。ニコンで、あれを作ってほしい。

 

 駒ケ岳にいた時に、私は多分SPを使っていた。レンズは何度目の登場なのだろうか、

タクマー2/58だった。ゾナー 2.8/85 を買ったのは、その翌年だから、1978年という事になる。

酒一升をぶら下げて、八海山に登った。勿論、ゾナーだけを着けて。

あれこれ撮影しがらの登山は楽しかったが、麓のばあちゃんに言われた「3時間」というのは大幅に狂った。

何と、5時間もかけて、やっと着いたのだ。その夜は八海山の人達と一緒に、大いに飲んだ。

飲ませてもらって歓待されて、翌朝目が覚めたのは陽が高く昇ってからだった。

まるっきりの二日酔いで、実はあの岩場をどうやって越えたのか、全く記憶がないのだった。

気が付いたのは、祓い川のあたり。そして、何とか中の岳の山頂について、

暫くまた気絶していたのではなかったろうか。この日は、全くカメラに触っていないと思う。

体が冷たくなって目が覚めた。ずうっと向こうに、駒ケ岳の山頂が見えた。

あそこに行けば酒が飲める。そう思ったのが日暮れ間近。駒の小屋に辿り着いたのは、

真暗になってからだった。アイヤァー、管理人がいない。がっくり来たが、どうしようもない。

ランプに灯を点して、一人その辺にあったウイスキーをなめていると、

随分遅くなってから、管理人さんが登って来た。

私は既に意識朦朧としていたのではなかろうか。彼とどんな話をしたのか全く記憶がない。

全ては翌朝になってから。 陽が高く昇っていた。私は毛布にくるまって寝ていた。

夏とはいえ、朝方は寒い。その寒さで目覚めたのだが、又もやひどい二日酔いだ。

私は、何故、こうもぐうたらなのだろうか。

花の写真を撮ろうと思ってカメラを取り出すと、そう言えばこのレンズ、接写が出来ないなーと気付いた。

勿論カラー写真ではないのだから、何をどこまで写そうというのではない。

だが、いかに黒白の写真だとは言っても、例えば白根葵を逆光で撮ると、とても美しいのだ。

一体、花の写真は逆光から反逆光で撮るのが良い。黒白の写真であれば、そうするのが必然だったのだ。

だから今でも、撮り方は変わらない。

管理人さんは私の後輩だが、山と写真に関しては私の先輩。然も、彼はニコンとマミヤの645。

レンズを貸してくれと言う訳にはゆかない。これが困るんだよなー。

何度も言いたいが、レンズマウントは統一してくれー。

そしてまた、記憶がなくなるのだ。

下山してから、フィルムの現像をして、翌日は引き伸ばしだ。

八海山にある碑、或は石像などの写真が、光り輝いているのだった。

真っ白から真っ黒までの諧調が、素晴らしく豊かであり、夫々の諧調に於て全てが、光っている。

如何にモノクロームの写真とは雖も、カラー写真よりも数段美しい色を感じるのだ。

其の他の写真については印象が残っていない。

然し、その後はこれ一本で撮っていた。そして使えば使うほど感激は大きくなっていった。

決定的な写真があるかと問われれば、判然これだと言えるものが無いのかも知れない。

でも、やはりモデルさんを撮ったものが一番良く、このレンズの良さを表しているだろう。

秋、蕎麦の花畑で、このモデルさんを撮った。勿論「COM」の仲間たちが誘ってくれたのだ。

半截の其の写真は、誰かが持っていった。                             

今のニコンと比べたら、どんな感じだろうか。勿論夫々の良さはあろうが、ボケの観点からは、

ニコンに軍配が上がる。だが、その他の点では完全に、ゾナーだ。

君はニコンのもっと良いレンズを知らないからだ、と言う御仁も居られるだろうが、

それは多分価格帯が全く異なるものだ。高くて良いレンズなど、私は使った事が無い。

だから、同じ程度のもので比較している。と言うよりは、私が使った事がある、と云う物でしか比較出来ない。

 そう言えば、私はもう一つ撮りたい物がある。

それは、何百年も前の、或は縄文時代の、この日本の姿だ。決して可能な事ではないが、

それでも強く希望する。どんな風景だっただろうか。

全くの原生林ならば、今とそれほど変わりはしないだろうから何とかなるのだが、

川と平野と山の姿や、人間の生活の姿などは、全く不可能な望みである。

若しも、それが可能だったら、私はどんな機材を持って行くのだろうかと考える。

勿論記録の目的なのだから、出来るだけ画質を優先する。

そうなると、機動性の面もあるから、例えばベッサの6×9などはどうだろう。

それに加えて、ペンタックス6×7だろうか。そして最も大切な物、

透明人間になるマントをドラエモンから貸して貰わなくては。こんな夢を見る私は、多分馬鹿なのだろう。

 

 父のベッサに就いて、想い出した事がある。

高校生の頃だった。私は、誰にフィルムの装填を習ったのだったろうか、もう完璧に出来たのだ。

赤外フィルムを買ってきた。駒ケ岳の真っ白な姿を、空の色を落として、撮りたかった。

写真屋の親父さんから、三脚に取り付けるアダプターを何とか手に入れて貰ったのか或は只で貰ったのか、

とにかく三脚に固定した。その頃は、シャッターが数回に一度位しか落ちず、タイム露出で、

何と学生帽をシャッター代わりにした。

オレンジのフィルターは、どうも、親父さんから借りたような気がする。

親父さんは初から止めた方が良いと言った。然し、私は撮りたかった。

レンズの前に学生帽を被せておいて、シャッターを開く。そして素早く露光する。

勿論シャッタースピードは適当だが、不思議な事に露出は全駒完璧だった。

但し、ピントが合っていなかったのだ。勿論ピントリングに赤外マークなど無い。

適当にバックして撮ったのだから、11cmのレンズでは、補正しきれなかったのかもしれない。

そら見た事かと、親父さんに叱られた。

唯、露出は良く合っていると、最大の賛辞を頂いた。ピンボケの写真を一枚引き伸ばしてくれた。

赤外写真は、35mmカメラになってからも、性懲りもなく撮った。何故か。メリハリがあるからだ。

 早津先生は、ペンタックスのスーパーS2と謂うのを用意して下さったのだが、

私はお金がないから、殆ど使わなかった。然し、自分のカメラとなると、これは話が別だ。

当然何かしらのアルバイトをしないとフィルムを買えない。それで、自在館に頼み込んで、

我侭なアルバイト生活を一寸だけしたのだ。フィルムが手に入るとまたもや写真を撮る。

そして写真屋の親父に叱られる。

 ああ、そうだ。ベッサの顛末を書こうとしたのだった。シャッターがおかしいので、親父さんに相談したら、

ドイツへ送っての修理になるかもしれないと言われたのだ。それは困る、金がない。

昭和42年と云えばそういう時代だったかもしれない。だから、自分で壊してしまった。

嗚呼。無知という、悲しき性よ。

その負い目があるから、父には、カメラに関しては今でも協力している。

SPの調子が悪いと言われた時には、もう修理するよりも新しいのを買った方が良いと思って、

慌てて息子と同じカメラを新品で買ってやったし、それよりもライカのバカチョンの方が良いと言われれば、

娘と交渉して交換してやった。最早ベッサのお釣りは返したと云う思いはあるのだが、

此処で、時代がものを言うのだ。あの頃の中古カメラの値段は、実に私の月収の二ケ月分であったのだ。

其にしても、あのベッサのレンズは優秀だったと思う。何というレンズだったのだろう。

 

 やはり高校生の頃だった。担任の堀澤政榮先生と云う大恩師が、胃潰瘍で入院された。

先生は、戦後収容所を脱走して、インドネシア独立運動に参加された方だ。

クラス会議で、クラスの皆が元気に校庭の雪堀をしている写真を見舞いに贈ろうと云う事になった。

私が、写真班になったが、全く自信はない。生徒の顔を基準にすると、周りの景色が白く飛んでしまう。

さりとて中庸と云う訳には行かない。生徒の顔が分からなければ、先生には唯の除雪風景としか映らない。

何とか撮影はしたが、写真屋の親父さんに頼み込んだ。何とかならないものかと。

親父さんは、覆い焼きをして下さったのだと思う。

大変な作業であっただろう。何とかして下さった親父さん、有り難うございました。

 私は所謂奥手だったから、高校生になっても異性に対して其程気にする事が無かった。

だから、女生徒の友達は多かった。実は、私もイイ男ではないから、モテると云う事が無かったので、

さ程意識せずに済んだのだろう。更に白状すると、クラスの女生徒の半分位しか名前を知らなかったのだった。

だから、全員の写真を撮れたかどうかというと、どうも怪しい。

あの時、さしたる問題提起が無かったから何となくそれで済んだのだが、

若しも「私が写って居ない」などと言われたらどうしよう。33年も前の事だから、

もう何とも仕様が無いのだが。

 然し、あの時は実に楽しく写真が撮れたと思う。何しろ、私一人が労働せずに済んだのだ。

これは良い商売だと思ったが、間もなく学生運動が激しくなり、報道カメラマンの厳しさを知った。

だから、写真は道楽以上の事にはならなかった。私は臆病者なのだ。

その後ヴィエトナム戦争が激化して、カメラマンの死亡なども報道されたし、またテレビドラマにもなった。

憧れはしたが、やはり臆病が先に立った。また、ヴィエトナム戦争の何たるかは、

岡村氏の本以外に何の知識もないノンポリだった。あの戦争について知るようになったのは、

実はタイムを毎週購読するようになってからだ。英語は良く分からないものの、読む事は読んだ。

私だって読む事位は出来るのだ。意味が分からないだけだ。

それでも、読んでいるうちに何とか戦争の理不尽な事は分かるようになってきた。

だから私は、今でも戦争が嫌いだ。

 或る時、NHK・TVで、解放戦線側のカメラマンの話が放映された。

私はそれ以前にもカメラマンの大変な事は知っていたが、銃弾以前の問題というのを初めて知った。

キャパの「ちょっとピンボケ」を読んだ時に、かなり分かったつもりだったが、

気候や風土が絡むという事、使える機械が違うという事、夜しか行動出来ないなどの問題もあったのだ。

更に、軍の支援なくしてはママならぬという事も知った。それでも、自らの信念として、

北と南、互いに夫々が正しいと思って戦っていた筈だと思う。

正しい者同志が、何故敵対しなければならないのだろうか。

 タイム・ライフブックスに、1975年発行の「LIFE AT WAR」という本がある。

勿論ヴィエトナム戦争の写真も載っているが、全編これ戦争である。

この本の中で私はどの写真に最も感動したのだろうか。答は、「全ての写真に」である。

本来、こういう写真は撮られてはいけないものなのだと思う。人間社会の営みの中に、

あってはならないシーンなのだと思う。キャパもダンカンも、

そう思いながらシャッターを押し続けたのではなかろうか。

実は、炬燵の中でのうのうと暖まりながらこんな事を書いているのは、

偽善者団体の一員と全く同じなのだろう。戦争を知らぬ者が、こんな事を書く事自体おかしいのだ。

我々戦争を知らない世代の者は、平和について考えるべきだ。戦争否定の時代に育った者は、

その時代を甘受しつつ、平和に就いて深く考えるべきだ。・・・と、思う。

然し、これは所謂社会Aの考え方であり、勿論戦争肯定のB社会の思想も否定出来ない。

 

 息子は、夕暮れの写真を好んで撮った。カメラを買って貰って、

最初に褒められたのが山形のあたりの夕暮れの写真だ。その後、家の屋根に妹とよく上っていたが、

今はそれが困難になった。屋根に上る手段が無くなったのだ。

私もよく屋根に上って夕焼けを見ていたので、何とかしたいと思っている。

それは扨おき、彼が写真を余り撮らなくなった原因は何だろう。

余り褒めては貰えなくなったからかもしれないが、実はもっと面白いものを見つけたらしい。

 長女も、息子と同じカメラを持っている。彼女は全く触りもしない。

次女は、私が使っていたティアラを欲しがったのだが、ニコンのズーム付きのコンパクトカメラを与えた。

この子もそれ以来全く関心がなく、失敗した。

 母が、数年前に、写真を始めたいと言った。それは良い事だとばかりに、

ライカの日本製コンパクトを買ったが、こんなのよりもティアラが良いと言うので、交換した。

フジのミニ・ティアラは、わが家では評判が良い。

 妻には、最初、景品で貰ったコニカを与えた。

ところが、長女に与えたミノックスの写りがとても綺麗だと言って、それをちゃっかり分捕った。

 話が込み入ってしまったが、わが家のカメラ構成は次のとおりだ。

父は、アサヒペンタックスSP。1.8/55,3.5/35,2.8/85。

   ライカ・ミニ3型。                                                       

母は、フジ・ミニ・ティアラ。

妻は、ミノックス35ミニ。                                                    

長女は、ヤシカFX3スーパー2000、1.9/50。

長男は、長女と同じく、スーパー2000、35〜70ズーム。ニコンFE10。

次女は、ニコン・ズーム500、38〜105macro

 

以上の如くである。これだけを見れば、写真一家だと思われるだろうが、実は違う。

残念な事だ。ではどうすれば良いか。

 私は、家の廊下に一人一枚づつの、ミニ・ギャラリーを開こうと思っている。

毎月一枚と言うのは資金的に苦しいから、三ケ月に一枚づつ四つ切りに引き伸ばして飾ろうか、と。

そして、家族会議で順番をつけて、優秀作から順に、玄関の近くから奥に向かって展示する。

わが家の玄関の、入ったばかりの所は人目に付くが、奥へ行くに従って見難くなるからだ。

最後尾は、何と便所のドアの上だ。

しかし、これは家族内での喧嘩の元になるかもしれない。

順番付けを、ひょっとして近所の人達に頼まねばならなくなると云うのは、ちょっと迷惑をかけてしまうなぁ。

 

 実は、未だ有るのだ。私の撮りたいものが。

馬鹿にされようが、嗤われようが白状しよう。私は、月や火星や土星の写真が撮りたい。

それも現地へ行って、の話だ。亦もや夢の中なのだが、実は私は、天文少年だったのだ。

盛岡天文同好会に所属し、きちんと、数学以外の事は勉強していたのだ。

数学は、中学生の時に「対数とは何か」と問うた時に、高校で習うからと言って教えて貰えなかった時から、

嫌いになった。本来は、多分嫌いではないと思う。基礎が出来ていないから、理解出来ない。

時々、数学の本を買ってきては半分位しか読まない。だから、数学の本は何冊もある。

 彗星の軌道計算などは、憧れだったのだ。数式をとばして読む天文書の、何と悲しい事か。

だが、結構文学的な本も多くあったのだ。関勉氏の彗星発見物語や、ロシアの天体生物学者の本は、

何度読んでも感激した。写真と天体が結び付かない筈が無い。

だが、天体写真は、せいぜい日周運動位しか撮れないものと諦めたのだった。

あの頃はそうだったのだが、近頃では諦めない。

あのヘール・ボップ彗星が近づいてきた時には三脚にがっちりと固定して、

15〜30秒の露出で見事に撮ったのだ。而もISO 100のフィルムで。

更にその時使えるカメラといえば、キエフ19しか無かった。

ファインダーではピントが合わないカメラである。レンズの距離環は∽に合わせれば良いのだが、

何となくファインダーを覗いていてしっくり来ない。それでも完璧に写ったのだ。

レンズのゴーストがどうとかフレアがどうとかの問題はもうどうでも良かった。

きっちりと写ったHB彗星の姿に感動したのだ。

 彗星といえば、双眼鏡で何度か見た事がある。あれは何という名前だったのか、

まだ尾は無くてボヤッとした印象だった。

だから、駒の小屋の前庭で酔いを冷ましながら双眼鏡を覗いていた時に、偶然見つけたのが、

彗星だと分かったのだった。それでも移動を確認してから報告しようと、翌晩まで待った。

すると、記憶していた位置には、あの ボヤッとした姿が無かった。

さあ大変だと、焦ってその周囲を捜すのだが見つからない。昨晩のうちに、その位置をス

ケッチして置くべきだったと後悔したが、遅かった。なにしろ酔っていた。

ひょっとすると "Comet HOSHI が誕生していたかもしれない。ただ、その後新聞でも話題にならず、

そのまま去って行ったらしい。遠去かる姿を目撃したのだろう。

 こういうのを、怠慢と言う。きちんと記録しなさい、

時刻は正確に記録しなさいと云う訓練を受けていたのに、何たる態よ。・・・1977年、夏。

それにしても移動速度があんなに早いというのは、信じられない。

とは言え、一日にどの程度動くのかは知らないのだ。HB彗星はそんなに動かなかったではないか。

例え酔っていたにしても、周囲40度も50度も捜したのだから、そんなに見落とす筈は無いと思うのだが。

それでも見失ってしまったのだ。

こう言う事は、今迄の人生で随分有った様な気がする。所謂、チャンスを逃した事だ。

だから、忠告する。チャンスを逃すな、と。

 

 写真を引き伸ばす度に驚くのが、あの小さな画面のネガフィルムの中に、

こんなにも情報が入っていたのか、という事だ。

24×36mmという面積の中に、よくぞこれだけの情報を詰め込んでくれたと思うと、感動する。

逆に言えば、ファインダー内では如何に画面全体を見ていなかったかという事にもなる。

まさしく、私の場合はその通りなのだ。

特に花の接写の場合がそうなのだ。何処と何処にピントが合っていて、

バックには何んな邪魔物が入り込んでいるか、更にボケ具合はどうなのか、と云う事が、

なかなか撮影の段階では見えていない。原因は分かっている。

ファインダーが小さ過ぎるから、ではない。注意力が不足しているのだ。

 片栗の花を、1/2倍ぎりぎりで撮っていたとしよう。

蟻が上ってくる。しかし、それに気づいて、今度は蟻を追いかけてしまう。

すると、必ず決めた構図が動くのだ。花の色が重なってしまって目指す花が他の花に埋もれてしまう。

或は、シャッターチャンスを逃してしまう。また、蟻に気を取られて光を忘れてしまう。

 きのこを撮る時は更に深刻だ。きのこは、なかなかバックが選べない。

アングルファインダーの導入も考えてはいるのだが、それにしても似たような色になってしまう。

土や枯葉の色は、余りバックとして良くないと思う。それに、なかなか時間もないのだ。

山に入る時は、少なくとも朝の6時には家を出たいものだ。光の問題も、ヘビの問題も、

暑さも疲れも、少しは解決しよう。

そんな事は知っているのだ。余所の人が仕事を終えて帰って来る頃に、家を出るのだ。

だからといって私が怠け者だと云うのではない。余所の人達が、働き過ぎなのだ。

ただ、これは言える。写真を撮りたかったら、朝は早く家を出なさい。

ヘビに遭いたくなかったら、もっと早く家を出なさい。茸だって、斜め光線ならば少しは

立体的に写るだろう。春の花だって、朝露をたっぷり含んでいる。

 ああ、そうだ、情報量の話だった。

画面の中で、何処にピントを合わせたいか、それ位は私でも考える。

だから一応ぐるっとファインダーの中を見回すのだ。やはりそれでも、見落としが多い。

こんな物に迄ピントが合っていたとか、もう一寸絞り込んでピントを深めたかったとか、

反省材料はいつだって山ほどあるのだ。

一番多いのは、枯れ草のボケが、異常に明るい事だ。

何故こんなに明るく写るのかと、忌々しく思う。画面に思わぬ邪魔物が入る事も、多い。

これはファインダー画面が、実写画面より狭い範囲しか見えないのが原因だ。 

視野率というが、これは120%欲しいものだ。最低でも100%。

ピンボケはどうだろう。結構多い。

手振れだって多い。やはりミラーショックの影響も、大きいのだろう。

同じ写真でも、ブレが無くてピントぴったりの物は格段に情報量が多い。此処で注意するのは、

ボケも情報の重要な要素だという事だ。勿論、大分極端になるが、航空写真は物凄い情報量である。

若い頃に習ったものだが、その写真から或る範囲の材木の量(材積)を計算する方法があった。

私は眼が悪かったので、立体視が出来なかったが、

地形の様子以外にも様々な情報がぎっしりと写っているのである。詳しい事は既に忘れたが、

教科書には二種類のカメラが載っていた。

航空写真は飽くまでも鮮鋭さと、無収差が求められる。だが、我々の写真は、ボケ具合すらも情報の内なのだ。

レンズの種類を判別するのにも使う・・・・。                  

画面中央にだけピントを合わせたいという事は、私の場合全く少ないのだが、

そんな時でも隅っこのすみっこに、ピントが合っている時がある。

それが、貴重な偶然性でもあれば良いのだが、印画紙をそこだけ切りたくなる物なのだ。

即ち、写真としては邪魔物だ。勿論有効な事も多い。

花の図鑑などでは、目的の花の他にも沢山の種類が同時に写っている。

すると、それらの花々も同じ頃、同じ所で咲くのだと云う事が分る。

更に、何気ない記念写真であっても、大きく引き伸ばすと、足下に何気なく菫の花が咲いていたりする。

帽子の上に、トンボが止まっていたりする。

あの小さなフィルム画面の中に、なのだ。大きな驚き、なのだ。

 

 先日、オーバーホールが終わったニコンFで、銀山平の写真を撮ってきた。

快調なシャッター音で、申し分ないのだが、一本全駒露出過多であった。

400のフィルムを入れたからかもしれない。

その気になって、かなり絞ったつもりなのだが、未だ足りなかった。

露出計を着けて行こうかと思ってはいたのだが、忘れてしまった。

曇りの日で、すぐに駒ケ岳は雲の中に隠れてしまう日だったから、

250の11位ならば良かろうと安易に考えたのが失敗のもと。

雪と云うのは思いの外、白いのだ。今度は快晴の日、雪祭りの準備に駆り出された。

1000の22で撮った。荒沢岳だけだったが、露出に関しては良い線いった。

ぴたりの露出だが、ひょっとするともう一つ絞っても良かったくらい。

このカメラは、本当に使い易い。何故だろう。

持ち易いのだ。ファインダー画面がすっきりしているのだ。

ああ、このボディ内にTTLが入っていたら、と思うが、再たしてもの話になる。

 私は、最近になって使ってみたいカメラが増えた。ペンタコン・スーパー。写真から判断すると、

かなり持ち易そうだ。一寸左手側が詰まっているかなぁという位。

それにしてもこの資料は、寸法と云うものが載っていない。何故なのだろう。折角の本なのに、勿体無いなぁ。

前述した事だが、私はカメラその物も大好きだから、結構その手の本を買って読む。

技術屋さんの想いが伝わって来るような本が好きだ。本に依っては涙が出る事もあった。

ove 社発行の、”Russian and Soviet Cameras”は、素晴らしい本だったが、

私はロシアの人が書いた本を読みたい。同じく、ハンガリーの人が書いたカメラ史を読みたい。

亦、フランスに於けるカメラの歴史書も、フランス語ではない言葉で読みたい。

私はロシア語もハンガリーの言葉もフランス語も読めないから、誰か日本語に翻訳してくれ。

 話は全く横道に外れるのだが、私は映画がとても好きだ。全く好きだ。

暗い映画館ならば、私が泣いていようが笑っていようが、誰にも見られない。

だから映画は良いんだと言うつもりはない。私が好きなのは、じっくりと作られたその構成だ。

または、大衆娯楽性だ。その中で、生きている内に必ずもう一度見たいものがある。

 「シベリア物語」。たった一度NHK・TVで観た。

小さな画面だったが、私はそれが放映された一週間後にヴィデオ・デッキを買ったのだ。

惜しい。実に惜しかった。それでNHKに手紙を書いた。是非もう一度放映して欲しい、と。

丁寧な返事が来た。不可能だと。私はロシア語を理解する者ではないが、ロシア語の「音」は快い。

ロシア語の音韻の何が、私に合うのだろうか。分からない。

私は当時、せめてもの努力で、オリムパスのパール・コーダーで録音した。

それしか保存方法がなかったからだ。しょっちゅう再生して聞いていた。

然し、何時しかそのレコーダーは壊れてしまった。既に、二十年にもなろうか。

 私はそのテープを再生しながら、必ずその言葉に同期した画面を思い浮かべ得た。

涙が流れる場面では必ず涙が出た。言葉は分からなくても、涙は遠慮なく出て来るのだった。

画面はなくても、涙が溢れて来るのだった。それが何ゆえなのかなど、当時は考えた事もなかった。

 今は分かる。シベリアの大地で生きて来たあの人達の笑顔や親切を知っているからだ。

シベリアの大地に抑留されて生き抜いたあの人達を知っているからだ。

私のロシア語の先生は、先ず第一に、シベリア抑留生活をして来たあの人達だ。

そして、シベリアの優しい人達だった。だから、ナホトカの港が見えた時は涙が止まらなかった。

ナホトカの港を出る時にもまた、涙がとまらなかった。1973年春、多感な22歳。

 

 あのローライ社が、韓国の軍門に降ったと言うニュースはショックだった。

然し、一方では然もありなんと納得した。あれほどの技術力、資本力を持っている韓国ならば、

その資格は十二分にある。むしろ日本が遅れているのだ。それが切ないとか残念だとかの想いはない。

私は、Made  by Rollei Singapoleを、誇りを持って使ったのだ。

 それにしても、何故私はドイツのカメラに憧れるのか。

簡単な理由がある。私は高校生の時に、随分お世話になった英語の先生には誠に申し訳ないのだが、

独人ドイツ語を学んでいた。当然独学だった。

古本屋で買ってきた教科書はラテン文字ではなくて、古めかしい書体を使っていた。

だから、ドイツ語と謂うのはそういう物だと思っていた。おかげで、古い文献などは読める。

しかし、これも英語と同じで、日本語には翻訳できない。そうなのだ。ロシア語も読める

のだが、やっぱり意味がわからない。こう謂うのを、論語読みの論語知らず以下と言うの

かもしれない。いや、もっと程度が低い。

だから、例えば、”SPIEGELREFLEXKAMERAS  AUS DRESDEN ”と云う本の題名が、何となく

読みづらい。日本のカメラだってラテン文字で表記されているのを見ると、

やはり全世界に通用するような文字を使うのが相場なのだろうか。

それでもその生産国の文字を使って欲しいと思うのはいけない事なのだろうか。

ソ連のカメラは堂々とロシア文字を使っているではないか。しかも筆記体で表記されている物さえある。

例えば「旭光学LX」とか、「日光 伊三号」などと云う表記も良いと思うのだが、なかなかそうは行かない。

 さて、ドイツのカメラだが、私が初めて使った物が、将しくドイツ製だった。

Voigtl*nder 社。私は、この社のロゴが好きだ。後で気付いたのだが、その書体が、

ドイツ文字に似ているのだ。氛圍気でだけなのだが、それが何とも言えずに美しい。

 一体カメラの顔とも言える刻印は、何故ああもバランスが悪くて、しかも美しくないのろうか。

私が美しいと思った物は、киевと楷書で書かれた、キエフ2型だ。それと、ニコンF。

あのFの文字が、絶妙な位置にはっきりと刻印されている。               

ただ、これは好みの問題だが、デザインと云うものはバランスが悪いと何とも間の抜けた物に見える。

 それから、一眼レフのローライフレックスSL35、ローライ35。あの文字も良い。

Contax 1.型の文字と配置も、絶妙だ。あのブラック・コンタックス、いいなあ。

特に、最後のXの文字が、1.型では一寸上の方で交差している。2.型では丁度真ん中で交差しており、

上下左右が対称形だ。ことに1.型では、ヴァージョン7と謂われるボディに

沈胴2.8 /5cm Tessar のレンズが誠に美しく映える。ああ、良いなあ。

自分の持てる力のぎりぎりまでを追求する姿が、私は大好きだ。

ぐうたらな私が言える言葉ではないのだろうが、それでもドイツのカメラの、あの頃の物が大好きだ。

あの頃の、精神が好きだ。

 

 ドイツは、敗戦に依って西と東に分割された。朝鮮とヴィエトナムは北と南に。

その他、分割或は統合された国々の皆さんは、非常な苦労をなさって居り、

現在なをその苦労を引きづって居られる。日本も、あの時に分割される筈であった、と思う。

だが、分割の悲劇を避け得たのは当時の政府の大きな努力の賜物だと思う。感謝したい。

歴史に「若しも」は無いと謂われるが、私はドイツの分割をとても悲しく思う。

だが、現実としてあったのだ。何故、一つの民族が一つの国家として存続出来ないのか。

それが世界政治だ。良くない事だと思う。

そもそも、民族とその言葉は、そしてその独立共同体は、必ず不可分であるべきなのだ。

その中で、政治思想や体制を言い合っておれば良い。その国の中で、思想や発言は自由であれば良い。

それが、国民であり、個人である。国家は、文化、言語、そして国土。

この三つが共通であれば成立する物であり、肌、髪、瞳の色などに拘ってはいけない。

日本人であっても、よく見れば誠に様々な髪の色なのだ。肌の色となると、全く様々なのだ。

大別して、YELLOWと言われるだけだ。それが何だ。同じ言葉を使い、同じ文化を共有するならば、

それは同じ人種なのだ。

 けれども、私は、中国、朝鮮等の、所謂東南アジアの民族、そして、エスキモーは同じ人種だと信じている。

勿論思想も宗教も肌の色も違う。それが何だというのだ。私が信ずると謂う行為に、

誰が文句を言わねばならぬのだ。

尤もそれに対して、批判を受けた事は無い。何故か。私はそんな事を発表した事が無い。

それが何だ。たった今発表したって良いではないか。

それにしても一寸飲み過ぎた。頭の中が支離滅裂。それが何だってぇんだ。ベらんめぇ。

 ドイツのカメラはどうなったのだろう。結局、私はドイツが好きなのだ。文句あるか。

 

 高校生の時に、あれは学期末試験だっただろうか。化学の問題が分からなかった。開き直って、

解答したのを全部消した。そしてあろう事か、ローレライの歌詞を、ドイツ語のしかも筆記体で書いたのだ。

ただ、Ich wei* nichtと謂う所だけをラテン体で書いたら、

先生はそこだけ赤いアンダーラインを引いて下さった。そして、何と70点を下さったのだった。

偉い先生であったと、今は思う。山本先生、感謝。

 一年生の時に現代国語担当の柳ケ瀬昭彦先生が居られた。

その先生が、授業中にドイツ語を教えて下さったのが発端かもしれない。

この先生は面白い方で、国語の時間にいきなり、「今日はa0 =1を証明する。」と言われて、

黒板にその証明を書き始めたのだ。私は一年生で何にも分からなかったから、

とても感激した。こんな面白い先生が居られるのが高校だと感じた。

ところが、この先生に止まらず、皆変な先生だったのだ。勿論生徒も異常だった。

私は授業をよくサボったから、時々一年生や二年生の教室に潜り込んで授業を聞いていた。

先生も心得たものか私の顔を知らないのか、叱られた事は無かった。

 こういう環境の中で、早津先生と知り合いになったのだった。

早津先生は芸術家であった。後に民家で有名になられたが、当時は抽象画を専らとされていた。

故に、私は理解出来なかったのだ。ところが、或る時「学校の先生になりたい」と相談したところ、

言下に反対された。「星は教師になっても、三日持たない」と仰言るのだ。

理由を説明して下さるに及び、私は納得した。

先生はこんなにも生徒の資質を見抜いて下さっていたのかと思うと、泣けてきた。

もう一人泣ける先生が居られた。堀澤先生で、三年間ずうっと担任であった。前述した様に、

インドネシアでスカルノ一派と共に、独立運動をされた方である。

卒業間近になっての事、兎に角大学へ行けとおっしゃる。金が無いと言うと、入学金は出してやるからと、

更に仰言るのだ。有り難い事とは思ったが、固辞した。学力不足で、

私立以外に受け入れては貰えそうになかったのだ。それに、私には青空大学が性に合っていると思っていた。

だから、私には恩師と言うべき方々が、沢山いるのだ。巡り合いに依って、その偶然に依って。

私は最高に幸福者である。

 カメラの世界でもそうだ。単なる機械を恩師と呼べると謂う事は、実に幸せな事だ。

もっと端的に言えば、私の人生には、恩師以外の人や物に出合えなかったのだ。

これほど幸せな事はあるまい。

有難う、皆さん。感謝です。大感謝です。

 

 本來無東西                                                                   

 何處有南北                                                                    

NHK・TVで、熊野の番組をやっていた。その中に出て来た言葉。なかなか格好いい言葉だな、と思う。

哲学的で、響きが良くて、今の社会には少々重みのある言葉だ。

そして、5月になった。

 1999年5月1日。今日からゼンマイ採りの生活が始まった。

快晴。当然カメラを持って行く。岩場にしかゼンマイがなく、なかなか写真が撮れない。

それでも何枚か撮った。エノキ茸が出ていた。エノキ茸だと思う。きっとそうだ。

自信がないので、取っては来なかったが、浅井伸一さんに伺いたいものだ。

咲いていた花。イワウチワ、イワナシ、カタクリ、その他の花は名前知らず。勿論撮ったが、

出来上がりが推測できる程度のものだ。                                       

 山桜も辛夷も咲いている。これが、待ち焦れた春なのだ。                         

雪渓も十分あるが、普通の年よりもやや少ない。それでも、何でもかんでも引っ括めて、春だ。

やがては蝶も翔んで来るだろうし、一面の花畑にもなろう。カメラ担いで、山の中を駆け巡る。

いや、よたよたと歩き回る。

 この時期になると必ず、白戸川を想い出す。父も母も若かった、あの頃だ。

黒白のフィルムを詰めて、アサヒペンタックスAPを振り回していた、あの頃だ。

誠に、天然は人生の師だと、思い知らされた。優しさも厳しさも、美しさも醜さも、そして安らぎも恐怖も。

全て混在していた。私は未だ若かったから、事の重大さを理解し得なかったかも知れない。

現在がどれほど偉くなった訳ではない。当時と些とも変わっちゃいない。

寧ろ全くの素人だっただけに、全てに感動し得たあの頃の方がましなのかも知れない。

然し、確実に進歩した所もある。それが、写真への私の態度だ。

もっと良い言い方が思いつかないのだが、写真を撮るという行為への想いだ。

あの頃は何でも撮っていたが、それでも色気があった。

県展に出品したり、あわよくばコンテストなどにも出してみようか、等という気持ちがあった。

それは、武藤先生に褒められた事があったが故かも知れない。

だから、あの頃は構図の勉強をし直したのだった。

 「理屈攻めの構図ですね。」

武藤先生に言われた言葉を、未だ忘れない。それが良い事なのか悪い事なのかを、先生は仰言らなかった。

あれから30年経った。現在私は、先生の言葉の意味が分かる。

もっと自由に撮れ、という事だったと確信する。もっと素直になれ、という事。

写真を撮ると謂う行為に関して、私は確実にあの頃の色気が消えた。

父のベッサを使ったあの、原点に帰った。だから、苦しまずに、楽しんでいる。

更に言われた事がある。

「星さんは、16mmかなんかやっていらっしゃるのですか。この一本、流れが良いですねぇ。

渓流の下流から上流へという、方向がありますねぇ。時間も、感じますねぇ。」

「まるで一本の映画を、見ている様ですねえ。」

 これで、封印し続けて来た映画への夢が、一気に崩れた。

 

 私は仕事上ではあるが、全くの不注意で左手の親指を半分失くした。

その時に、何と労災保険が下りたのだ。迷わずに、8mmシネカメラを買った。

キャノン・スーパー1218と謂う、物凄くレンズがでかい物だった。

然し、絵が動く、と謂う事は実に感動だった。これで映画が撮れるのだ。勿論、素人だから、

何がどうのと云うものではない。それでも映画は好きだったから、研究はしていたのだ。

では、自分で撮るとして一体何が撮れるのかを考えた時、迷うべくも無かったと云うのは幸いだった。

越後駒ケ岳からの、スキーの記録だ。

 「駒ケ岳と七人の侍たち」と随分気取ったのは良いのだが、実は途中で霧に巻かれて、道に迷ったのだった。

情けない話ではあるが、霧で、私は私の足首が見えなかったのだ。

勿論、私は スキーなど乗れないに等しい。だから、カメラマンなのだ。

大湯スキー場の先輩達が、スキーを背負っての登山から始まる映画なのだが、私は撮影しながら震えて居た。

涙さえ出そうだった。憧れの映画を、而もカメラマンとして撮る事が出来る。

その想いは、今でも忘れない、感激の連続だった。

だから、怪我をしてそれが出来ない体になった時は、心から泣いた。涙がぼろぼろ出て仕様が無かった。

 私がカメラマンをしていたのは、10年位だっただろうか。その間に、多くの良い友人を得た。

これも、私の宝だ。当然スキーは素人と云う私だから、面白い失敗談は山ほどあ

る。切ない失敗談もある。これが、人生の歴史だ。

 星隆市さん、桜井宣雄さん、渡辺重太郎さん、上重先生、桜井登紀夫さん、富永広二さ

ん、桜井良裕さん、星昭一さん・・・ 

数えると忘れた人が沢山居る。ごめんなさい。そして、有難う。本当に、有り難う。

良い想い出というのは、何時まで経っても忘れてはいけないものだ、と思う。

だから、忘れてしまった沢山の想い出と友人達に、御免なさいを言う。

それにしても、彼らは、私がクレバスに落ちて宙づりになった時に、こう言ったものだ。

「オーイ、カメラは、大丈夫か。」

 最初の年、即ち1973年、上重重正先生は、何と6×6判のカメラを持って行って、

記念写真を撮ってくれたのだ。ゼンザ・ブロニカだったと思う。

私が地方紙に記事を書いた時、上重先生からそのネガを借りて載せた。

勿論原稿料は払わなかった。御免なさい。

尤も、私だって苦労して書いたのに、赤提灯の煮込み一杯しか食わせて貰えなかったのだから、

それで良いよね。

 この映写会は、集まれる人だけが集まって、時折り開催する。実に楽しい一時だ。

このシネ・カメラについては、また後ほど記述する機会があると思う。

 

 自分で撮った写真で、これは良い、と思えるものがある。駒ケ岳の小屋の前庭から、

小屋全体と頂上を撮った物も、その中の一枚。ペンタックスSP,スーパータクマー1./55mm。Tri- X。

私はフィルムも印画紙も、現像液は少し古い物を混ぜて使った。

金が無いのも理由の一つだが、本でそんな記事を読んだからだと思う。

それが、時々、と謂う事はマグレなのだが、絶妙な諧調と色調の写真に仕上がるのだ。

少し黄緑がかったような黒になり、何となく落ち着いた色になる。そして、RCペーパーにも係らず、

かなり豊富な諧調になる。これは、レンズの味とは又違う次元の物だが、

最後までバライタ紙を使っていた私は、RCでも同じような写真を作った。

但し、フジブロマイドを使った時にのみ有効だった。そして、更に、面白い方法を見つけたものだ。

 先ず印画紙に露光をかける。試し焼きをしての、適正露光だ。

それを現像液につけて、やや足りないかなという時に上げる。そのまま新聞紙に露光面を下にして貼りつける。

これで二日位、直射日光の当たらない所に置くのだ。当然真っ黒になっていると思うだろうが、

どっこい、赤味がかったセピア調の写真になるのだ。私は、試し焼きの印画をそのようにして、

次の引き伸ばしの時まで放って置いた。ひっくり返して驚いたのだ。何と絵が残っている。

慌てて定着液に浸した。明るい所で見ると、何とセピアの写真になっていたのだ。

それでは、現像液から上げてひっくり返したまま電灯を点けたらどうだろう。

多分うまく行くと思うが、実はそこまでやった事が無い。

偶然の産物は、その条件でなければやらない。工夫する事が無いのだ。

然し良く考えてみると、定着が不十分ならば、それ程の時間を帶かずとも変色する。

それ故にわざと定着不十分な状態にするという方法も考えられる。

この方法で、何枚の写真を作ったのだったろうか。成功率が低かったかも知れないが、

それほど頻繁にはやらなかった。今残っているのは一枚だけ。尤も定着が悪くて変色したのは結構あるが、

所謂定着ムラというべきで、全体が綺麗になっているのは稀だ。

 再た引き伸ばしをしたいなあ。息子を助手にして、何れは私が助手になって。

ああだこうだと言い合いながら、或は酒を酌み交わしながら、好きな事が出来ると云うのは、

きっと幸せなんだろうな。

 

 写真を撮る事で何か面白い事が出来ないか。

 例えば、森田拳次氏の「ヒトコマ・ランド」と云う漫画があるが、この様な試みは出来ないものか。

一枚の写真に限らなくても良い。組写真でも良い。

硬い時事批判ではなく、誰が見ても吹き出す様な、そしてホロリとする様な。きっと素晴しい。

そして、やりがいがある事だと思う。誰かこれをやらないかなあ。

 例えば、懐メロを一枚の写真で表現するとか。

『波の背の背に ゆられて揺れて』田端義夫の名曲、「帰り船」。私はこの歌が大好きである。

これを一枚の写真にする方法を考えた。先ず歌詞のイメージを心に描くそしてそれを写真化する。

勿論、復員者の心が表れていなければならない。少なくとも私はカメラを使って撮りたいのだ。

当然ぴったりのものが出来るとは思えないが、欲ばらずに歌詞を添えて理解して戴くというのも良いと思う。

そうだ、例えば挿絵のような。

 更に例えば、写真俳句や写真和歌、などは何うだろう。

これは、出来るなら自分の作品を写真にしたい。自分で先ず歌を詠もう。そしてそれを写真にする。

面白いではないか。写真があってからの方が歌を詠み易いかも知れない。

でも写真を撮る時には必ず、俳句なり短歌なりを心で詠もう。出来上がった写真で推敲すれば良い。

これは是非ともやってみたい。明日山へ行ったら、きっと一歌詠みながら撮ってみよう。

残雪と新緑の対比が、きっと素晴らしい作品になるに違いない。逆光でウルイを撮ろう。

そして尤もらしい歌を詠むのだ。いいなあ。文学青年になったみたいで。

私は嘗て歌を詠んだ事がある。詩も作った事がある。文学的な素養は、あるのではないか

と思って居るのだが、果たして何うだろう。

                    *ウルイ: オオバギボウシュノ事。ワガ地方デハ、コレヲ茹デテ様々ナ料理ニスル。

 この事に就いては、深く追求しない事にしよう。

この一文を以てしても、ある程度の推測がつく筈だろうから。

然し、「昭和万葉集」の愛読者でもあるのだ。如何に愛読者とは云え、作文となると全く話は別だと思う。

それが悲しい。

 

 

最近、写真を撮る事が難しい状態だ。ゼンマイ採りは、秋のキノコ取りと違ってカメラがとても邪魔になる。

何故かと云うと、どんな所へでも行くからだ。崖っぷちもそうだが、

とにかく灌木の中をもぐったりもするのだ。更には、独特の衣装を着けているから、

腰の鉈が後ろに回せない。すると、カメラにしょっちゅう打つかる。

鉈は左側だから、カメラを右側に持ってきた。

すると今度は、しょっちゅう右手で木を伐っているのだから、カメラが暴れる。困った。とても困った。

だが、ローライ35以外の時は日陰の木にぶら下げていたではないか。やはり今年もそうしよう。

そして、往きと帰りには首から下げておくのだ。ああ、ローライ35サイズの一眼レフが欲しい。

はて、修理に出したレチナは、一体どうなったのであろうか。早く出来上がってくれ、と祈る。

今朝はイワウチワの花がとても綺麗だったから、逆光で撮ったが、何となく露出に自信が

ない。やはり400のフィルムは私に合わないのだろうか。あのTri-Xは、身に付かなか

ったのだろうか。再た100のフィルムを使う事にしよう。

 

 「白黒の写真が一杯あるよ」と息子が言うので、持って来させたら、

何と昔引き伸ばしたひどい傷だらけのもの。百枚位のうち、まあまあという印画は僅かに5枚ほど。

情けない。実に何とも、情けない。

道理であの頃、仲間達が良く言わなかった訳だ。それにしても今になって見直すと、

ひどく粒子が荒れているものや、まるで中判で写したかのような綺麗な印画、

更に不適正露光の物やドンピシャリのもの。

様々あるが、粒子が全く目立たない印画は、一体どうやって引き伸ばしたのであったろうか。

考えられる事は、撮影時の露出が適正であり、猶曽つ引き伸ばし時の露光が適正であった事。

更に加えるに、フィルム現像が全く良好であった事だ。この三者が相まって、綺麗な印画を得る事ができる。

待てよ、フィルムの種類の相違はないか。それがないのだ。同じ頃の物はすべて Tri-Xを使ったし、

その前はネオパンFとSS。それにしても5/100と云う確率は酷い。

20枚引き伸ばして一枚と云う事ではないか。                                     

忘れてた。引き伸ばし器を譲って貰った頃、過度の露出に対して現像時間を短くしたではないか。

薄いようなネガで、素晴らしい印画が出来たではないか。そうだ。或はそういうネガだったかも知れない。

 

 「アサヒ カメラ」1983年12月号を、山の家から持ってきた。

これには米山さんの写真が載っているので、ずうっと大切に持っていたのだった。

古い雑誌は面白い事を発見する。竹内敏信氏は随分若かった。広告のページの、野田康司さんも、

随分若いではないか。ということは、多分私も若かったと思う。

巻末の広告ページは、現在よりも断然少ない。

その中に、ニコンF準新・黒・120,000円と云うのがある。今では目が飛び出る値段なのだが、

これだけはこの当時に買って置けば良かったと思った。けれどもよく考えると、私には買える値段ではない。

あの頃、日当が6千円位だったから、一月の給料と云う事になる。それでも無理をして買えば良かった。

当時の私にとっては、ニコンと云うのは夢であった。だから買わなかったのかも知れないし、あるいは、

すでにFが時代遅れだったと思い込んでいたせいかも知れない。

それにしても、名機と謂われる物は一度手にして実写してみたいものだ。

それでなければ自分にとっての銘機が分らない。果たして評論の様な銘機なのか、

或は自分にとっては全くの重荷となるものかが分らない。

然しそれは全く不可能な事だ。だから、殆どのカメラを名機と呼ぼう。

何故ならば、それを設計製作した方々は、とにかく与えられた条件の中で一生懸命だったからだ。

その結果が悪い評価を受けても仕様がない。

私は今までに使ったカメラの中で、駄作だという事を感じた事がない。その何れもが、

必ず他機よりも秀でた所があったからだ。

 では、理想のカメラの究極版を書こう。

・ボディの大きさ: オリンパスOM1

     ファインダー: OM1のまま、ペンタックスLXと同じ交換式。

但し、リコーの何という機体だったか忘れたが、

上から覗けるペンタプリズムも販売の事。

                  ピントグラスは、ミノルタのアキュートマットも選択できる。

・ファインダー内情報: 視野率120%、露出計選択による表示変更。                 

・シャッター:  LXと同じ機構とするが、1/4000s. に加え、ストロボ同調速度は、

                1/250s.以上ある事。且、B及び1/60以上の速度は機械式併用。      

・TTL露出計: ニコンF5に加え、オリンパスOM4の機構を装備。ダイアル設定。

・フィルム装填: キャノンQL方式。

・その他:   ・プレビューボタン

                ・セルフタイマー

        ・巻上レバーは、ミノルタXEと同等以上。

        ・AEは、スポット測光、中央部重点測光、多分割測光が選択できる。

                ・画面サイズ24*35mm とし、余り1mmの中に撮影データを写しこめる。

        ・キャノンで開発したと思われるが、曇らない光学系を採用。       

 これは随分欲ばり過ぎだろうか。私はそうは思わない。

何故ならば、技術者達は、常に理想のカメラを追求して来た筈だからだ。

試作に終わった、ミノルタ・スカイを見よ。

ライカ4型を見よ。その他の、世に出なかった試作機の数々を見よ。                 

それにしても、技術者達や修理屋さんには、頭が下がります。 

 前頁から半年が経った。今は、西暦2000年。1月6日だ。

今のところ雪が余り無い。11月から12月中盤にかけて、かなりの呼び出しを食らって忙しかったが、

今は平穏、満々的。 昨秋の茸は、何と10月の下旬まで不作だった。それ故に写真を撮ってばかりいた。

茸が無いので致し方ない。

カメラはニコン・ニューFM2,レンズは殆ど全部が、マイクロニッコール 2.8/55 だ。

アルバム4冊の茸の写真のうち、3冊までが去年のものだ。

その中には多くの反省があるのだが、まず、浅井さんに言われた「絞り込め」について考えよう。

 まず、茸の写真というものは、被写体が暗いところにあるものだから、絞り込むには三脚が要る。

山歩きだから、私の場合、三脚の携行は不可能だ。では、ストロボを使うべきだ。

これも、本当は私がストロボの使い方を知らないので、困る事なのだ。

次にフィルムをスピードの速いものにする。

これは、その時々で一番安いのを買うものだから、何時も可能、とは言えない。

とにかく、小さな三脚があるのだから、それを有効に利用するべきだとは思っていたし、

何時も車には積みっぱなしだったのだ。カメラをきちんと固定する能力はなくても、無いよりは数段良いのだ。

全くの怠慢だった。春の花や夏の蝶についてはまた別記するだろうが、

今度こそ、絞り込んで茸の写真を撮ろうと強く反省した。

今年の秋の事になるが、今から心構えをしっかりしておこう。

また、ストロボについても勉強しておこうと、思う。

 湖南(私の長男)と、中の岐に入った時の事。小さな茸に、

細い髭の様な物がびっしり着いているのを見つけて、残念ながら接写の余り利かないレンズで狙っていた。

然も、暗い。あれあれ、写るかなーとは思ったが、私もそれを撮ることにした。

私のレンズは2.8 だ。1/60s.でOKだったが、湖南のはズームで暗い。ちょっと不足だった。

然し、ピントは深度が深いだけに、彼のほうが勝っていた。当然と言えば当然なのだが、

こと茸に関しては、相手が小さいだけに、

90ミリ前後のマクロレンズが良いだろうと言う事を実感した出来事だった。

そこで思い出すのが、タムロン・SPマクロ 2.5/90

この中古が一番安いという事。今年の課題だな。焦点距離と被写界深度の理解もさせなければならないし、

手振れの事も注意しなければならない。何よりもその前に、資金を調達しなければ。

 

 去年の夏は、仕事場で花や蝶をよく撮った。殊に蝶については全く不向きの標準マクロ

を使った。これも、90前後のマクロが欲しかった。昼休みの僅かな時間しかないから、

更に相手が動き回るものだから、これこそはせめて400のフィルムを使うべきだった。

花や葉に止まった時を狙うのだが、如何せん近づき過ぎる位でないと写らない。       

シジミ蝶などは、レンズ先端から僅か10cmまで寄る位の心がけなのだ。実際は30cm離れてはいても、

その心がけでないと撮れない。

 今年の夏は、仕事場で「蛾」を撮った。やはり標準マクロだった。約400枚、200種類は撮ったと思う。

大型小型、極小型と、大きさは様々だったが、1:1マクロでなけ

れば何が何だか分からないものには困った。

光。

何時までもついて回る問題で、こればかりは困った。一体、ストロボや三脚を本当は使いたくない人間だから、

性質が悪い。現場の状況はこうだ。

朝7時半近くに現場到着。駐車場から休憩小屋まで約100メートル。この間のあちこち

に「蛾」がいるのを撮影する。未だ光が当たっていない所、そういう所にいるのだ。

勿論私の事だから、昨日撮った蛾を、今日もまた「新種」として撮る。

「星さん、新種がいるよ」と教えて貰って、喜び勇んで跳んで行くと、残念、高すぎて写せない。

一斗缶を足場にして漸くファインダーをのぞき構図を決める。いざシャッターを切ろうとすると、

パーッと逃げられる。「アイヤー、初めて見たよ、あんな綺麗なのは」悔しがって嘆く。

どうしても撮れなかったのが、二種類あった。それ一度しか見ていないからだ。貴重種と言える。

もう一枚、大いに悔やんだものがある。4メートル以上離れていた、かなり大型の蛾を、双眼鏡で発見した。

慌てふためいてレンズを替えたが、24〜120ズーム。暗いレンズだ。そして、何しろ遠い。

撮るには撮ったが、遠すぎた。非常に綺麗な蛾だった。とても綺麗だった。黒くて、とても素敵だった。

 さて、このころの反省点を幾つか挙げる。

1・ 被写体が小さい為、ハーフサイズのカメラが良かった事。

    これは、オリンパスペンFTが良い。残念ながら、FT用のマイクロレンズは持たな

    い。然し、アダプターさえ見つければ、ニコンのレンズが使える。TTL の露出計

    が使えるかどうかは分からない。多分、F値表示でないので駄目だと思う。   

2・ やはり、茸の撮影でさんざん反省したのだから、ストロボは持って歩こう。然し、

    おそらくは使えないと思う。

3・ 撮影の時間が、余りにも短い事。毎朝5〜10分間しかない。10時の休憩時間も

    15分位だから、カメラを用意する時間がない。

    解決策が、ない。

4・ 遠くにいるものに対しての撮影方法を探す。望遠レンズなど使用。

    ブレとピントが大変だなあ。

 

 という様な事で、この第三部はこれでおしまい。春を待とう。

  

                                                              1999.12.